国民公会

1792年、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、国民公会という議会のジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であった。

議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日、オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、破産状態のフランスは戦備が整っておらず、兵士も未訓練で、革命の余波が軍隊に及んで指揮系統が機能しないフランス軍は敗戦を重ねる。またこのとき、王妃マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。

プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、拒否権を発動するルイ16世によって国政も停滞したため、反戦派の中心であったロベスピエールやダントン、マラーが主導し、8月10日事件を機に王権の廃止を要求、実現させる。

やがて、国民公会が召集される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ボルドークラブの人脈とブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。

こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派(モンターニュ派)とも呼ばれた

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出典:ウィキペディア フリー百科事典 (フランス革命 他)